熱帯の乙女座

Dance Until the End

ミッドナイト・ゴスペルと個人的なメディテーションの話

この1ヶ月半ほど食料や生活必需品などを調達する以外に外から出ない生活を続けている。この連休も例外ではなくほとんどを自宅で過ごした。せっかくの連休、何か有意義なことがしたいと考えてしまう。そんなことを何度も何度もこの人生で考えたものだが、小学生の夏休みから社会人になってから週末まで、一度だって満足に生産的になりきれたことがあっただろうか?この一年で自分に対して無茶なハードルは設定しないようにしようと学習した。連休最終日、振り返っても何か成果がこの手に残っている訳ではない。ただ「ミッドナイト・ゴスペル」を観たことはこの数日間で特筆すべき体験となった。二度とあるか分からない街中が静まりかえる特異な連休の締めくくりとして、今私はベッドの中で文章を打ち込んでいる。

まず、「ミッドナイト・ゴスペル」はクランシーという青年が宇宙の電波に向けて自身のラジオ番組を届けるため、多次元宇宙のさまざまな惑星で住人にインタビューをしていくという流れで進行していく。インタビューを受けるキャラクターの中の人は中毒・依存を専門とする医師や魔術師、はたまたクランシーを演じるダンカン・トラッセルの実の母だったりする。絶望的にショッキングな出来事が次々ととめどなく起こる最中でクランシーのインタビューは淡々と続いていく。アニメーションで見ている映像と音声が合致しないという未知の映像体験は最初こそ情報量が過多で混乱するが、時折アニメーションの出来事にスッと溶け込むようにインタビューも休符を取って足並みを揃えるタイミングが絶妙だから一話見終わるとこの特殊すぎる構成にも慣れていることに気がつく。インタビューで語られる衝撃的な新しい知識、ショッキングでサイケデリックなアニメーションで構成される異常なほどの情報量が脳にくる。そのうちこの体験に病みつきになり、迷わず全話一気に再生した。

それぞれのエピソードの内容はこのレポートでは触れないので実際に観て欲しい。そして興味があった回のゲストを調べるなり、そのトピックを調べるなりすればよいと思う。

私はすこぶる寝付きが悪いことにかれこれ20年以上も悩まされている。赤ん坊のころから寝付きの悪さは既に確立されていたらしく、なかなか寝付かずに両親を困らせたエピソードを聞くと心底申し訳なくなるほどだ。よく母親とも私の寝付きの悪さの話になるのだが、「ずっと考え事をしているんじゃない?」とよく聞かれる。確かに思考が常に頭を回しているという感覚がある。この止め方が全く分からないのだと伝えると、「無になる時間が必要だね。」といつも締めくくられていた。3年ほど過ごしたカナダでは、Meditationがとても広く受け入れられ盛んだった。体調の不良には処方箋の薬を摂取するように、精神の不調が原因と思しきものに対しては当たり前のようにみんながMeditationを取り入れている。この単語を日本語に訳すと「瞑想」なんだろうが、なんとなくニュアンスが重いような気がしてしまい正しく同一の意味を持つ日本語がない気がしているのでそのまま「メディテーション」とする。睡眠に問題があると私が溢すとみな口を揃えて「メディテーションをしてみれば?」と言うので、ネットで探したチュートリアルを参考に何度か試したことがある。素人が見様見真似で行っているので、おっ今の良かったなと手応えを感じることは少なかった。だが、母親の言っていた「無になる時間が必要だね。」の無とはメディテーションで得られる意識の変容のことであったのだと私は確信した。母親、そしてその母である祖母は時折空中を見つめて周りの声にも気がつかずただ空中を見つめ、佇んでいる瞬間がある。いつも溌剌として他者への慈しみに満ち、そして寝付きの良い彼女たちは日々自然にメディテーションをしているのかもしれない。

住環境の変化、はたまた何が影響しているのかははっきりとは分からないが半年ほど前からなんの苦労も無しに入眠できるようになったのだ。素晴らしいと思った。布団に入って30分ともせず寝られるなんて!しかも日付が変わる前に!どことなく体の不調を感じることも減ったと思う。睡眠に不自由がないことで、こんなに素晴らしい世界に生きられるのかと喜びに満ち、円満な睡眠生活を送っていた矢先。私の勤める会社は原則在宅勤務となった。この家の外へ出るのはほとんど週1のペースになった。最初は自由な生活を手に入れたような気にもなったが、そう簡単にはいかなかった。この世界にたったひとり生きているような心地になり始めた。仕事をしながら、毎日自分が徐々に低迷していくのを感じていた。いつしか、泣いて疲れ果てて眠る日が多くなった。ひょんと手に入れた幸せな睡眠生活は、泡のように逃げていってしまった。そこで、忘れてかけていたメディテーションの存在を私は思い出すのである。私には「無になる」必要があると。

食料品を調達するため自宅から出た5月5日、私は「ミッドナイト・ゴスペル」を見ようと思い立った。途中で柏餅に食らいついたりしながら、一気に8話分通して観てしまった。あのときの気持ちを言語化することができない。そのときの自分のツイートを見ると「自分の精神の所在地が全く分からない。考えることが難しい。」と書いてある。なんというか頭脳で考えることがとても難しかった感覚を覚えている。そして、食料調達とともにスーパーで手に入れた菖蒲を風呂に投げ込んで菖蒲湯にした。バスタブにお湯を張るのは久々だったし、銭湯にも久しく行けていないから湯船にゆったり浸かるのは久しぶりだったと思う。かなりふわふわとした頭のまま湯船に浸かる。温かいお湯が全身を隙間なく包む感覚はなんであんなに満たされるのだろうか。ダンカンの母が作中で言っていたように、指先の中を感じてみる。波打った細い線のようなものが無数にグルグルと小さく回っているようだった。クランシー(ダンカン)は磁石の反発するような力言っていた。腕、脚と徐々に感じるパーツを増やしていく。ただ、自分のあるがままを観察するだけ。どう自分が感じているかを観察するだけ。すると、ふと日常的に抱えている焦燥感や将来への漠然とした不安、自分の満たされない感覚が手放されていることに気がつく。言語も時折私の意識が揺れたときにごく少し言葉が脳裏を掠める程度である。普段強張り切った関節や筋肉に気がつき、ふっと脱力が出来る。私は「これが私が必要だった、無になるということか。」と納得した。薄暗い浴室の中で、ゆるやかに脚を動かすと脚の表面を滑る泡が異様に細かく繊細なまでに感じられた。

久しぶりに湯船に浸かったためか血行が良くなり全身がポカポカし汗がとめどなく吹き出した。脱衣所を後にし、裸足のままフローリングを歩くと、足の裏と床の接地面がとてもリアルに感じられる。すごい、ただ歩くだけで情報量が違う。そのままソファに腰掛けしばらく涼んでいると、指先の輪郭が鮮明な印象を受ける。空中に手をかざすと、空気がやけにまろやかでしかも肌を撫でるように常に緩やかに流動していると気がついた。何度かメディテーションを行った時も、手の感覚を意識するといった流れで行っていたため実は新しい試みではなかったのだが、ここまで効果がてきめんだったことは無い。どう考えても「ミッドナイト・ゴスペル」がもたらした効果としか思えない。家から出ないゴールデンウィークで新たな収穫を得ることができたんではないだろうか。心地いい睡眠を取り戻すため「無になる」ことへの理解を深められた私であったが、また明日目が覚めたら目まぐるしい現代の現実へと帰っていくのだ。少しずつ心身は疲弊していくだろう。そうしたらまた自分自身を静かに見つめればいいいのだ。そう知っている私はいくらか強い。おやすみ、いやさようなら、クランシー。